Yaffee's Whisky Blog

穀物、水、イーストという3つの材料から多彩な味が生まれ、長い熟成で気候風土や歴史、いろんな文化も取り込んで感慨深いお酒となっていくことがウイスキーの魅力だと思います。その魅力を少しでも伝えられるよう様々な情報を発信できたらと思います。またウイスキー以外にもいろいろな良酒たちをご紹介できたら幸いです。

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スコットランドの歴史 ~ウイスキーをはじめて記録に残したジェームズ4世~

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Hans BraxmeierによるPixabayからの画像

1494年スコットランド王室財務係に

「王命(ジェームズ4世)により修道士ジョン・コーに8ボルの麦芽を与えてアクアヴィテを造らしむ」

という記録が残っています。

ここに書かれているアクアヴィテとは古いウイスキーの呼び名で、初めてウイスキーが記録に出てきたもので、この年をスコッチウイスキー元年といわれています。

                                                                                                           

そんなウイスキーの歴史において重要な記録の登場人物、ジェームズ4世について掘り下げていこうと思います。

 

ジェームズ4世の即位前のスコットランド 

 

yaffee28ppm.hatenadiary.com

以前の記事に書いたディヴィッド2世の身代金はエドワード3世の死によって打ち切られましたが、これにはイングランドとの平和の終わりということを意味していました。イングランドエジンバラに攻め込んでくると、スコットランドは同盟国のフランスに援軍を頼んで国境を固めるなどの攻防が続きます。

 

その間のスコットランドは反乱・暗殺・不慮の事故により相次いで幼王が即位し、摂政と親政が繰り返されます。

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Daniel TiribaによるPixabayからの画像

 ロバート2世から王位を引き継いだロバート3世の時、弟アルバニ公ロバートが王位を狙っていることに感づいたロバート3世は息子ジェームズをフランスへ亡命させますが、そのフランスへの航海中にイングランド系の海賊に襲われ、息子シェームズはイングランドにとらえられます。これを知ったロバート3世は嘆き、そのままぽっくり亡くなってしまいます。

 その後国王不在となったスコットランドはアルバニ公ロバートが摂政を務めます。この状況が18年間ほど続きますが、豪族たちの支持を得るために王領地を分け与えたことが王室財政は悪化します。しかし彼にはスコットランド初の大学セント・アンドリューズを創設するなどの文化的な功績もありました。

 

 イギリス・フランス間で停戦が宣言される(ロンドン条約)とスコットランド皇太子ジェームズがスコットランドに帰国、ジェームズ1世として即位します。ジェームズ1世イングランドにとらえられている間、ロンドンの宮廷で教育を受け、フランスの戦場を駆け回るなど様々な経験をした青年になっていました。即位後ジェームズ1世は反対勢力を徹底的に大弾圧、急速に法の改革進めていきます。しかしこれがさらに反対勢力を拡大。また浪費家(娘の結婚式のためだったり、当時ものすごい贅沢品だったオルガン購入したり)でもあり、そのたび増税したために、庶民の反感を買うようになります。この結果1437年にジェームズ1世は暗殺されます。

 

国王暗殺後当時6歳のジェームズ2世スコットランド国王に即位しますが、政治は別の人間が行います。成人し親政を始めるとすぐにこれまで摂政を行っていた人物を粛清。大陸から大砲を購入し、これで各地の豪族たちを圧倒していきます。

イングランド薔薇戦争と呼ばれる内乱が起きると、ジェームズ2世はその内乱に介入し、北イングランド攻略に乗り出しますが、攻城戦の最中に大砲の暴発に巻き込まれて亡くなります。

 

次に即位したジェームズ3世も8歳という若さで国王となります。最初は母とその忠臣が善政を行っていましたが、2人の死後実権を握ったボイド卿が気の弱い少年王ジェームズ3世につけこんで、身勝手な政治を行います。

16歳となったときに政権を取り戻しますが、その後王弟アレキサンダーのクーデター、そして南部の貴族との間に起きた内乱ソーキバーンの戦いで命を落とします。

 

 

賢王ジェームズ4世 

 

 

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Наталия КогутによるPixabayからの画像

15歳で即位したジェームズ4世はこの時代のスコットランド王家スチュワート家の中にはいなかった寛容さと温情があり、冷静な政治力と高い学力を持っていた理想的な君主でした。

前の王ジェームズ3世を撃破したことで調子に乗っていたアンガス伯が起こした反乱を即座に鎮圧、領土を没収しますがそのあとアンガス伯に新しい領土を与え、2年後には宰相に取り立てるというその後の寛容な対応にアンガス伯も感激し、忠誠を誓ったそう。

またジェームズ4世はゲール語を含め8か国語以上を話せ、音楽などの文化・芸術や医学にも深い関心かあり、彼の創設したアバディーン大学はスコットランドだけでなくイングランドにもなかった医学部を作っています。

 

 

さらに内政面・軍事面でも様々な設備を整えたり、高い攻撃力を持った戦艦を用意し海軍力を強化したりしました。

 

そんな賢王ジェームズ4世もイングランド関係だけはどうすることもできませんでした。

 初めはイングランド王ヘンリー7世の娘マーガレットと結婚しイングランドスコットランド間で平和条約を締結しますが、ヘンリー7世が死去し、ヘンリー8世が即位したとき、イタリアのナポリをフランスが占領したことをよく思わなかったローマ教皇ユリウス2世がイングランド神聖ローマ帝国、スペインを巻き込んで対フランス神聖同盟を結成します。

 これにより再びフランスとイングランド間で争いが起きます。スコットランドとフランスは古くからの同盟国で、イングランドとは平和条約をやっと結んだばかりのスコットランド王ジェームズ4世は板挟み状態となります。ジェームズ4世は2国間の橋渡しになれるように尽力しますが、かなわずフランス王ルイ12世に従いイングランドに進軍することとなります。

賢王のジェームズ4世がイングランドに進軍するということでスコットランドからは過去最大の4万という兵が集まります。この4万の兵でイングランドに攻め込みますが、統率の取れたイングランド軍をもともとまとまることを知らないスコットランド軍が勝てるわけもなく、半分と少しぐらいの兵力のイングランド軍に大敗し、その戦い「フロドゥンの戦い」でジェームズ4世は戦死してしまいます。

 

この翌年フランス王ルイ12世とイングランドヘンリー8世は和解します。間に挟まれたスコットランドは優秀な君主を失い、兵力の大量に失い、また政治は混乱していくという一番の被害者となりました。

 

この後スコットランド国王には生後1年5か月のジェームズ5世が即位。また様々な権力争いで国が疲弊していきます。

 

次の内容は「悲劇の女王」メアリー・スチュワートについて書いていこうと思います。またよろしくお願いします。