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ウイスキーの次にラムが好きなウイスキーを愛する料理人Yaffeeです。
今回のお話は
「壮絶で残酷な歴史のある南国のスピリッツ「ラム 」 悲しきラムのルーツとは?」
について!!
普段ウイスキーについてまとめている当ブログですが、実は僕はウイスキーの次にラムが好きです。
もちろんラムの味わい・価格面で好きな部分は多いですが、僕が最も引かれたのはその深すぎる歴史でした。
皆さんは「ラム酒」についてどのようなイメージをお持ちですか??
- 南米の陽気なイメージ。
- 海賊や海軍、船乗りなど海の男のイメージ。
などどこか明るく陽気なイメージがあると思います。
しかし、ラム酒の背景にはとんでもなく壮絶で残酷な歴史があり、悲しいルーツがあります。
ラム酒の歴史は、学生の頃世界史で勉強した「奴隷貿易」・「三角貿易」などに深くかかわってくるのです。
今回はラムの壮絶な歴史からラムの製法・種類なども見ていこうと思います!!
今回の記事でわかること……
- ラム酒の壮絶で悲しきルーツ・歴史
- なぜラムと奴隷がつながるのか?
- なぜラムには船乗りや海賊のイメージがあるのか?
ラム を知るためには必須!
砂糖の歴史
もともとラムは砂糖の副産物として生み出された蒸留酒です。
ラムの歴史を知るためには、まず砂糖の歴史を少し知らないといけません。
製糖技術の広がり
サトウキビの栽培方法や製糖技術はインドからイスラム教徒により広がっていきました。
そして十字軍の遠征をきっかけにヨーロッパへと広まっていったといわれています。
その後、地中海でサトウキビの栽培と製糖業が開始されました。
しかし、地中海域はサトウキビの育成に必要な降雨量と日照時間が足りません。
砂糖の大量生産はできません。
15世紀になり、羅針盤の発明などにより航海術が向上、大航海時代へと突入。
はじめにポルトガルの航海士が、アフリカ西岸のマディラ諸島に入植。
一大サトウキビのプランテーションを建設し成功します。
それに続きスペインも、カナリア諸島に同様の砂糖プランテーションを築き、富を築きました。
コロンブスの新大陸発見
ジェノバの船乗りコロンブスは、地球球体説を信じ大西洋縦断を計画します。
大陸のはるか東の
- 希少なスパイス類が豊富なインド
- 黄金境として知られていた日本、中国
は大西洋を西へ進めばたどり着けるだろうと考えていました。
大波に揺られながら61日間の航海の末、バハマ諸島のグアナハニ島(現ワトリング島)に到着。
そして到着した地をサン・サルバドル(聖救世主)と名付けました。
その後、
- キューバ
- イスパニョーラ島(現ハイチとドミニカ共和国)
にも上陸。
彼はキューバについたとき、島ではなく中国大陸の一端だと思い込んでしまったそうです。
コロンブスは2回目の航海の時、カナリア諸島産のサトウキビの苗をエスパニョーラ等へ運び移植します。
今でこそ南米はサトウキビのイメージが強いと思います。
ところが、コロンブスがサトウキビを持ち込むまでカリブ及び、中南米には1本たりともサトウキビはなかったそうです。
他にもカナリア諸島にはサトウキビ以外にも様々なものが持ち込まれました。
そして反対に新大陸から様々なものがヨーロッパに持ち込まれます。
- 小麦
- コーヒー
- オレンジ
など
- たばこ
- トマト
- トウガラシ
- ジャガイモ
- カボチャ
など
ヨーロッパでは毒があると信じられていたそうです。
コロンブスは新大陸を発見し、多くの文化に影響・貢献しました。
しかし、アメリカ大陸は1499年に到達したアメリゴ・ヴェスプッチに由来するアメリカと命名されることになります。
コロンブスは、世界史の教科書には必ず出てくる偉人です。ただ、生前に認められることはなかったそう。
コロンブスの葬儀は、彼の弟と息子たちだけで行われたといわれています。
コロンブスの功績が世界に認められたのは、コロンブスが亡くなって400年以上経ってからだったそうです。
(嘘つきノーランド)はコロンブスがモデルでは?という考察もあるそうです。
トリデシリャス条約
新大陸発見からポルトガルとスペインの領土争いは激しさを増していました。
この争いが世界的に深刻な問題となったため、
時のローマ教皇アレクサンデル6世は領土のざっくりとした統括を目的として
トリデシリャス条約
を発令します。
発見された新大陸のうち赤い線の
- 西側の陸地はスペインのもの、
- 東側の陸地はポルトガルのもの
と勝手に土地を分けてしまいます。
争いを見ていてめんどくさくなったローマ教皇が
「ここから西がスペイン!!東がポルトガル!!ハイ終わり!!」
ってつけたような条約だと思います。
(個人的な見方です。)
かなり雑ですよね。
中南米はブラジルの一部を除いて、すべてスペイン領となりました。
これにより、イギリスやフランスなどはこの領土争いに参入できなくなります。
何の相談もなくローマ教皇の一存で定められた条約に、ほかのヨーロッパ諸国から批判殺到しました。
三角貿易とともにラムが誕生
トリデシリャス条約のせいでイギリスやフランスなどは、指をくわえて待つことはできませんでした。
イギリスやフランスは、金銀財宝を積んだスペイン船団を襲撃することから活動し始めます。
つまり海賊です。
当時、イギリスやフランスが海賊たちに根回して、スペインやポルトガルの船団を襲わせていました。
彼らはスペイン船団やスペインの植民地を次々と襲い略奪していきます。
1588年、アルマダ海戦でスペインの無敵艦隊を海賊たちがついに撃破。
その結果、スペインは徐々にカリブ海全体の支配権を失っていきました。
するとイギリスやフランスは、カリブ海の島々を侵略し始めます。
ただ、カリブ海の島々は金銀があまり取れません。
スペインはそのためにカリブ海の先住民を金銀の採れる地域へ
奴隷として連れてったり、その場で虐殺してしまったりしていたそう。
カリブ海の島々は、過疎化していました。
過疎化していたからこそ、イギリスやフランスは簡単に植民地にできたのです。
それ以外にもカリブ海諸国の先住民は、
ヨーロッパやアフリカから持ち込まれた疫病によって多くの人がなくなりました。
これも、カリブ海の島々が過疎化した原因です。
ただイギリスやフランスの植民地化の目的は、砂糖の大量生産。
過疎化していても関係ありません。
占領した地域をどんどんサトウキビ畑に変えていきました。
大規模なプランテーションを作るためには、多大な労働力が必要です。
そのため、アフリカから大量の奴隷が連れてこられました。
そしてカリブの島々の砂糖プランテーションで働かされることになります。
つまり奴隷貿易です。
プランテーションで造られた砂糖がヨーロッパに運ばれます。
ヨーロッパにつくと、砂糖の代わりに奴隷確保のための最新武器と交換してアフリカに運ばれていきます。
その武器を使って奴隷として先住民を捕まえ、またカリブの国々に運ぶという
三角貿易が出来上がりました。
この三角貿易で、ヨーロッパは莫大な利益を上げます。
その一方でカリブと西アフリカは、人的資源やもともとの文化を根こそぎ奪われてしまいました。
三角貿易の影響で、現在でも中南米やアフリカは
- 政情不和
- 経済的な偏りによる貧困
といった状況が残っています。
三角貿易によりカリブ海の島々には大規模なプランテーションができ、砂糖が大量に作られるようになりました。
すると砂糖の副産物として結晶化しない甘いシロップ(モラセス)も大量にできます。
多くのプランテーションで、このモラセスを発酵、蒸留してお酒を作るようになりました。
これがラムの誕生です。
今でこそラムは嗜好品としての地位を確立していますが、当時のラムは嗜好品ではありませんでした。
かなり雑味が強く荒々しい酒だったといわれています。
ラムは、奴隷たちに命令を聞かせるアメとして扱われていたそうです。
「経営の上手いプランテーションはラムをうまく使いこなしている」
この認識が白人経営者の中で広まっていきます。
船乗りとラム
奴隷のアメとムチのアメとして短期間で広まったラム。
ところが、いつしか『ラムが壊血病に効く特効薬』という認識が船乗りたちに広まっていきます。
ビタミンC欠乏症による出血性の症状。
最悪の場合、死に至る病気です。当時大西洋を横断していた船乗りたちの間で蔓延し、恐れられていました。
ひどいときは、乗組員の1/3が亡くなったといわれています。
ところが、
ラムを飲んでいた船の乗組員たちは、全く壊血病にならなかったのです。
当時 船乗りたちは、荒々しいラムをライムジュースと砂糖で割って飲んでいたといわれています。
実際にはライムジュースが、壊血病に効いていました。
ただ、ずっとラムが特効薬だと信じられていたそうです。
1731年、イギリスは海軍全員にラムを支給する規則を設けます。
この海軍のイメージが色濃く残っているのが、「パッサーズラム」です。
このラムの支給は、1970年7月30日イギリスでラムの支給廃止の日(ブラック・トット・デイ)まで続きました。
ラムは船乗りに欠かせない飲み物となります。
商船や海賊船、海軍などすべての船、そして港街の酒場などにも置かれるようになっていきます。
ラムが嗜好品に!!
奴隷のアメや船乗りの特効薬として広まっていたラムでしたが、1693年大きな機転が訪れます。
マルティニーク島にドミニコ会修道士ジャン・バチスト・ラバが訪れます。
彼は修道僧だけでなく、美食家としての有名な方でした。
ジャン・バチスト・ラバは、ラムも蒸留をちゃんとやればうまくなるのでは?と考えます。
コニャックと同じ製法で造ってみました。
フランス本土からコニャックの蒸留機を持ち込み、同じに丁寧に蒸留を行います。
結果、現在のラムに近い高品質なものが出来上がったそうです!!
徐々に高品質なラムが人気となり、砂糖とともに第1級の貿易商品として輸出されることとなります。
これに倣ってイギリス植民地にはスコッチの技術、
スペイン植民地ではシェリーやシェリーブランデーの技術が持ち込まれます。
ここから、
- フランス系ラム
- イギリス系ラム
- スペイン系ラム
という特徴が生まれました。
奴隷制度の廃止
1776年、アメリカ独立宣言。
1789年から始まるフランス革命などの影響し、ヨーロッパで黒人奴隷解放の流れができ始めます。
1804年には世界初の黒人共和国としてハイチがフランスから独立。
これによりハイチで砂糖のプランテーションを築いていた白人経営者たちは、キューバに亡命します。
そしてハイチに変わってキューバが世界一の砂糖生産国に。
1833年にイギリス、1848年にはフランスが奴隷制を廃止します。
黒人奴隷が解放されると、カリブや中南米の砂糖プランテーションは深刻な労働力不足に陥りました。
すると今度は中近東や東南アジアから大量の奴隷が連れてこられるようになります。
そして、カリブ諸国はより多種多様の文化入り乱れていきます。。
こういう当時の一部の白人の考え方が、ゆがんでますよね。
新しい砂糖の誕生、そしてラムの需要増加
18世紀寒冷地でも栽培できる甜菜から、サトウキビと同じような甘味成分が取れることが発見されます。
1786年には甜菜糖が完成。
同時に精白糖の製造に成功します。
するとクセの少ない精白糖が人気になっていきます。
また1806年にフランスの大陸封鎖を配布。
フランスは自国の植民地マルティニークなどからの砂糖もストップします。
その打開策としてフランス国内で甜菜の栽培を進めるようになりました。
マルティニークやグアドループなどでは砂糖の不良在庫が増えます。サトウキビ原料の砂糖の価値はどんどん下がっていきました。
反対にラムの人気はどんどん高くなっため、副材料だったモラセスが不足になります!
「ラム用のモラセスを作るために砂糖を作る」という今までと逆の状態となります。
そしてまた砂糖の不良在庫が生まれて、砂糖の価格はさらに下落。
多くの製糖工場が倒産していきました。
ラム業者はこの対策としてサトウキビジュースをそのまま発酵し、ラムを作るようになります。
これが「アグリコールラム」の誕生です。
禁酒法とキューバラム
19世紀後半からキューバでラムづくりが本格化します。
アメリカで禁酒法が施行されると、多くのアメリカ人がキューバを訪れて観光地として栄えていきます。
この時、バカルディをはじめ多くのキューバラム蒸留所は急成長!
禁酒法が廃止されるとアメリカへの輸出でさらに規模を拡大していきます。
1959年キューバ革命が起きると政府から土地と財産の没収を免れるため、バカルディのような大手はドミニカ共和国など周辺諸国に亡命します。
そして亡命先で今までと同じようにラムを作り始めます。
ドミニカ共和国やプエルト・リコも、キューバと同じようにライトでスムースなタイプのラムが造られるようになりました。
ラムのグローバル化
マルティニーク産ラムがフランス本土のAOCを取得すると、各地でラムの品質保証の流れができ始めます。
- 「アグリコールラム」
- 「ハイモラセスラム」の確立
- ウイスキーの大手ボトラーズメーカーの参入
など、今現在ラムがどんどん発展してきています。
様々な銘柄のラムカスクが誕生。ついにはデュワーズもラムカスクを作りました。
これからのラムにも注目していきたいですね!!
参考文献:ラム酒大全
最後に……
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回のお話いかがだったでしょうか。
ラムの歴史ってすごく深いですよね。
もともと奴隷のアメとして誕生したラムが、船乗りの薬となり、洗練されて嗜好品となり……。
こういった歴史を知ると、目の前のお酒が尊いものに感じるのは僕だけではないと思います。
ぜひ、ラムを飲みながら楽しんでいただけたら嬉しいです。
それでは、良い晩酌を!!
また次回もよろしくお願いします!!
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