本日もお越しいただきありがとうございます。
ウイスキーを愛する料理人Yaffeeです。 (@TW0GPYU3yMS7N3o)
今回のお話は、「ウイスキーが楽しくなるアイルランドとアイリッシュウイスキーの歴史」について!!
皆さん、ウイスキーというとどういったウイスキーを思いつきますか?
また今ではジャパニーズウイスキーという人も多いかもしれません。
アイリッシュウイスキーというとよく見る銘柄なら「ジェムソン」ですが、それ以外の銘柄が思いつかないことも多いのではないでしょうか?
ただ、実はウイスキーの歴史が最も古いのはアイリッシュウイスキー!
そして過去には、スコッチウイスキーもはるかに凌駕するほどの人気を誇っていました!
アイリッシュウイスキーには深い歴史があり、その歴史を知ることでよりウイスキーが楽しくなると思います。
今回はそんなアイリッシュウイスキーの歴史とウイスキーが楽しくなるアイルランドの歴史をまとめてみました!
ぜひ、アイリッシュウイスキーともに楽しんでいただけたらと思います!!
今回の記事でわかること……
- ウイスキーが楽しくなるアイルランドの歴史
- 奥深いアイリッシュウイスキーの歴史
- アイリッシュウイスキーが一度衰退した理由
『アイルランド』について
アイリッシュウイスキーとはアイルランドで作られているウイスキーのこと。
アイリッシュウイスキーとアイルランドの歴史を見る前に、アイルランドについて少しまとめようと思います。
『アイルランド』は、グレートブリテン島の西側に位置する島。
この島の中で、共和制の「アイルランド共和国」と立憲君主制で英国の一部の「北アイルランド」の2つの国に分かれています。
アイルランド共和国
面積 | 約73000㎢(スコットランドより若干小さいぐらいの面積) |
---|---|
人口 | 約470万人 |
首都 | ダブリン(人口約137万人) |
宗教 | カトリック約8割 |
元首 | M・D・ヒンギス大統領 |
通貨 | ユーロ |
国花 | シャムロック |
守護聖人 | 聖パトリック |
北アイルランド
面積 | 約14100㎢(一番小さい県の香川県より少し小さい面積) |
---|---|
人口 | 約188万人 |
首都 | ベルファスト(人口約34万人) |
宗教 | プロテスタントとカトリックほぼ同数 |
元首 | エリザベス女王 |
通貨 | ポンド |
国花 | シャムロック |
守護聖人 | 聖パトリック |
ウイスキー好きの方でも意外と知らないことの多い『アイリッシュウイスキー』。アイリッシュウイスキーとは、アイルランドで作られているウイスキーのことです。 実は、スコッチウイスキーより人気が高かった時代[…]
アイルランドとアイリッシュウイスキーの歴史
紀元前のアイルランド
紀元前3000年頃にアイルランドにケルト人が到達。
ケルトの文化が根付いていきます。
紀元前1世紀末、ローマによるブリテン島を征服が始まります。
その時、ローマ軍はアイルランド島までは進軍しませんでした。
そのためローマの支配下にはならず、古代アイルランドでは100近い小国が乱立していたそうです。
ただ不思議なことに、それらの小国は文化面では、
- 同じ言語(ゲール語)
- 宗教(ドルイドを中心とした自然崇拝)
- 法律(ブレホン法)
が共有され、発展した民族だったといわれています。
キリスト教の布教
アイルランドは国教がキリスト教です。
結構古い時代からキリスト教が根付いていたそう。
ただローマに侵略されなかったアイルランドに、キリスト教がなぜ普及したか疑問に思いませんか?
それはアイルランドの守護聖人・聖パトリックの布教活動が素晴らしかったからだそうです。
聖パトリックは、アイルランドの民衆に広まっていた自然崇拝をキリスト教に取り込み、古代の宗教とキリスト教のハイブリットを実現させました。
それによって、アイルランドの民衆からの信仰を集めることに成功。
それがよくわかるのが、アイルランドやスコットランドなどに残るケルト系キリスト教のシンボル「ケルト十字」です。

聖パトリックが、ラテン十字に太陽のシンボルである円環を組み合わせたとされています。
これにより急速にアイルランドでキリスト教が普及していきました。
イングランドの支配と穀物原料の蒸留酒の発見
1172年にイングランドのヘンリー2世がアイルランドに侵攻。
そこからは800年近くにも続く、アイルランドの歴史はイングランドからの支配と謀反の歴史となります。
この時にアイルランドでは穀物原料の蒸留酒が飲まれていたそう。
アイルランド侵攻時、イングランド兵士がアイルランドで「ウスケボー」という穀物の蒸留酒があることを報告したという記録があります。
ただし、当時の蒸留酒(ウイスキー)は蒸留したてをそのまま飲むか、干しブドウや果物、香料、スパイスで香り付けしたもの。
今のように樽で熟成させて飲むものではなかったそうです。
ただこれがスコットランドやアイルランドなどで穀物原料の蒸留酒が歴史に現れた最初の記録といわれています。
そして、この記録からアイルランドがウイスキーの発祥地といわれています。
アイリッシュウイスキーの全盛期
18世紀にかけてウイスキーのも産業化の波が押し寄せます。
このぐらいの時代が、アイリッシュウイスキーの全盛期です。
この当時、ウイスキーといえばアイリッシュウイスキーのほうが人気が高かったそうです。
ロシア皇帝のピョートル大帝は、アイリッシュウイスキーを愛飲し、
「アイリッシュこそNo1のお酒!!」みたいなことを言っていたそうです。
ただ、イングランド政府からの酒税が高かった時代。
スコットランドと同じようにアイルランドにもたくさんの密造所ができていました。
1823年酒税法改正されますが、アイルランドでは政府公認蒸留所になろうと思ったところは少なかったそうです。
それはイングランドへの反逆心が特に強かったから。
だからこそ、イングランドの公認蒸留所になんていらなかったのかもしれないですね。
ところが、公認蒸留所が増えた1840年代からスコッチウイスキーがアイリッシュウイスキーの生産量を上回り始めました。
イギリスからの独立
19世紀後半から20世紀初頭にかけてイングランドからの独立の気運が高まります。
1916年の「イースター蜂起」を機に一気に反英・独立戦争が勃発します。
結果、1922年に現在アイルランド共和国となっている地域がアイルランド自由国として独立。
北部がイギリスに残る選択をします。
これが現在の北アイルランドです。
しかし、この独立という選択がアイリッシュウイスキー界に悲劇を呼びます。
アイルランドの歴史を語る上で欠かせない「ジャガイモ飢饉」
1845年から49年にかけて起きたこのジャガイモ飢饉で、アイルランドに住む100万人以上の方が亡くなります。
約800万人いた国内の人口が、250万人近くまで落ち込むこととなります。
なぜジャガイモの不作がここまでの被害となったかというと……
当時の農民たちが作っていた麦は、地代として納めるものでした。

農民たちが口にできたのは、自給自足のジャガイモだけ。
つまりどの国よりジャガイモの依存度が高かったそうです。
そのジャガイモが大不作となり、農民たちは栄養不足、食糧不足による免疫力の低下により、伝染病で次々と亡くなっていきました。
それは小さな町では、そのコミュニティが崩壊するほどでした。
現在のアイルランド全体の人口が660万人なので、まだまだこの飢饉の傷跡は残っているようですね。
移住した先は大体がアメリカでした。
そのため今でもアイルランド系アメリカ人が多くいます。
つまりアイルランドはアメリカ依存が高い国です。それだけアメリカの影響を受けやすい国となります。
ここもアイリッシュウイスキー衰退の大きな要因となってしまいます。
アイリッシュウイスキーが衰退した理由
アイリッシュウイスキーが衰退した原因は大きく3つあるといわれています。
- 連続式蒸留機の発明とスコッチブレンデッドウイスキーの誕生
- アイルランド独立戦争
- アメリカの禁酒法
連続式蒸留機の発明とスコッチブレンデッドウイスキーの誕生
1831年アイルランドのイーニアス・コフィが連続式蒸留機を発明し、特許を取ります。
コフィ自身、アイリッシュウイスキーの更なる発展を期待して発明・特許獲得したそうです。
ところが、アイリッシュウイスキー造りの職人たちはこの蒸留機に見向きもされませんでした。
当時スコッチウイスキーは癖の強いモルトウイスキーがほとんど。
スコットランド以外では全くといっていいほど人気なかったそうです。
ほかの国で人気のウイスキーは、アイルランドが作る穀物感とスパイス感がありつつスムースで比較的飲みやすいポットスチルウイスキーやモルトウイスキーでした。
アイルランドの蒸留所では、このポットスチルウイスキーに誇りを持ってました。
そのため連続式蒸留機で造るウイスキーに「よくわからない機械で造るウイスキー」って考え方があったようです。
コフィの連続式蒸留機に目をつけたのは、スコットランド・ローランドのウイスキー業者。
コフィ式蒸留機で、穀物原料のライトでクリーンなグレーンウイスキーを製造しました。
このグレーンウイスキ―を癖の強いスコッチモルトウイスキーと混ぜ合わせると、飲みやすくも程よい癖を残す『スコッチブレンデッドウイスキー』が誕生しました。
アイリッシュウイスキーよりも飲みやすいスコッチブレンデッドウイスキーが徐々に人気が高くなり、ウイスキー界の不動の地位を確立していきました。
対してアイリッシュウイスキーは逆にその市場を奪われてしまい、衰退の一途をたどっていきました。
アイルランド独立戦争
1916年の「イースター蜂起」により、アイルランドではイギリスからの独立運動が激しさを増していきました。
そして1922年、アイルランドはアイルランド自由国として独立すると北部はイギリスに残り、国は2つに分かれました。
ところが!!
独立により大英帝国の商圏から締め出されてしまいます。
これによりアイリッシュウイスキーは大幅に市場を失うこととなりました。

イギリス、カナダ、インド、オーストラリア、南アフリカ、ニュージーランドなどなど
世界各国に広がっていたすべての場所でアイルランド産の商品を売ることができなくなりました。
アメリカの禁酒法
ただ大英帝国の商圏から締め出され、さらにアメリカへの依存が高くなっていたアイルランド。
そんな時にアメリカで禁酒法が施行されてしまいます。
1920~33年のアメリカ禁酒法は、スコッチにも大きな影響を与えました。
ただアメリカ依存が強かったアイルランドは、特に被害を受けることになります。
禁酒法がきっかけとなり、ついに大量にあったアイルランドの蒸留所は2つ(ブッシュミルズ、ミドルトン)だけになってしまいました。

アイリッシュウイスキー=「まずい」「質の悪い」といった印象が根付いてしまいます。
このアイリッシュウイスキーのイメージが、追い打ちをかけました。
本日もお越し頂きありがとうございます!!実は教科書に出ないような歴史が好きなウイスキーを愛する料理人Yaffeeです。 (@TW0GPYU3yMS7N3o) 本日のテーマは「アメリカの禁酒法」!![…]
アイリッシュウイスキーの復活
経済が安定し始めた1972年頃、アイルランドに残ったすべての蒸留所が国境を越えて合併。
IDG(アイリッシュ・ディスティラリー・グループ)を成立します。
生産拠点を南の新ミドルトンと北のブッシュミルズの2か所に集結されました。
そして1987年に新しく第三勢力としてクーリー蒸留所が誕生します。
しばらくミドルトン、ブッシュミルズ、クーリーの3つの蒸留所がアイリッシュウイスキーを作っていましたが……
2007年にはキルベガン蒸留所が復活。
そして2010年以降、マイクロ蒸留所がたくさんできていきます。
その中には……
- クーリー蒸留所を立ち上げたティーリング氏の二人の息子が作ったティーリング蒸留所。
- フランスのブランデーの名家カミュ家が手掛けたランベイ蒸留所
などなど
他にもアイルランドには怒涛の勢いで蒸留所が増えており、個性豊かな蒸留所がたくさんできています!!
そういったところのウイスキーが徐々にリリースされ始めていて、これからアイリッシュウイスキーの人気が高くなっていくのではないかと思います!!
563年 | 聖コロンバが北アイルランドからスコットランドに布教に訪れ、アイオナ修道院を建てる。 この頃エール(ビール)が記録される。 |
1172年 | ヘンリー2世がアイルランドに侵攻。兵士が「ウスケボー」の存在を報告。 |
1316年 | 1633年発表のエドワード・カンピオン『アイルランド史』にアクア・ヴィタエ(蒸留酒)の記述。 「1316年に飢餓が起こったのは、兵士たちが四旬節(復活祭前の40日間の事)に肉を食べ、アクア・ヴィタエを飲んだための祟りだった」 |
1405年 | 『Annals of Clonmacnoise(クロンマクノイズ年代記)』にアクア・ヴィタエの記述。 「アクア・ヴィタエ(生命の水)ではなく、アクア・モーティス(生命の毒)だった……」 |
最後に……
最後までお読みいただきありがとうございます。
今回のお話いかがだったでしょうか?
アイリッシュウイスキーはこれからどんどん伸びていくジャンルかなと思います。
現に今「没個性なアイリッシュ」という印象を破壊するような個性的なアイリッシュウイスキーも数多くリリースされています。
新しいアイリッシュウイスキーとともに知ってほしいアイルランドとアイリッシュウイスキーの歴史を書きました。
アイリッシュウイスキーは一度は栄光を掴んだものの大きな挫折を味わったウイスキーです。
そういった背景も知ると、アイリッシュウイスキーがより好きになるかもしれません。
ぜひ飲みながら楽しんでいただけたらと思います!!
それではよいウイスキーライフ!
また次回もよろしくお願いします!!
↑↑
公式ラインページにて当ブログの更新情報など不定期配信しています。
また、「子連れ料理人ブログ」では子育て・料理人としての働き方・副業(主にブログ)についての内容を配信中。
ご興味のある方は、一度お越しください!!